島本和彦『アオイホノオ』(14) 小学館、2015.7
小学館から電話がかかってくる見開き数ページで、ああ、いよいよこの『アオイホノオ』も終幕を迎えるのか、と少し寂しい気持ちになったのだが、まだまだ杞憂なのかもしれない。そんな一夜にして、全てがうまくいく世界など、焔燃には用意されていないのだろう。佳作受賞の知らせのくだりの、焔のテンションの流れ、それの読者への見せ方は、大クライマックスを回避し、いつもの風景が繰り広げられる。まだこの漫画は続く、続けられる、という感じにもまた、アオイ時代はまだまだ続くのだ、簡単に「大人」になれるもんじゃあない、という厳しさと安心感を感じて、それはそれで複雑な気持ちではある。燃えろ/吼えろペンまで続けることも可能だが、果たして…
島本和彦最長の連載の落としどころが気になり始めた。
このブログを始めて、最初の新刊なんで、ついでに記しておくと、
『アオイホノオ』第1巻を読んだときの嬉しい感じと言ったらなかった。『炎の転校生』や『逆境ナイン』はもちろん、『燃えるV』も『無謀キャプテン』も『男の一枚レッドカード』も『仮面ボクサー』も全部好きな島本ファンの私だが、『燃えよペン』シリーズ以降、それ自体は面白いのだけど、行き着くとこまで行ってしまった感というか、もう「上がり」なのか、という気がしていた。もう、「少年漫画」も描かない/描けないのかもしれない、とすら思っていた。そこにきたこの『アオイホノオ』は、いわゆる島本キャラの青年版アップデートで新境地だと思った。滝沢昇のような人間が思春期を過ぎ青年になろうとしているとき、その、「少年」にはない自意識のありよう、読んでて痛い感じが、これは来たぞ、という感じだった。果たして、長期連載になっている。当然だろう。そんな『アオイホノオ』の終幕が一瞬見えたので、落としどころが気になるのだ。少年漫画のように、巨大な敵に立ち向かう、大風呂敷を広げてそれと戦う作者というスリリングなパラレル構造ではなく、敵は自分の人生なのだから。
それにしてもトン子さんはとてつもないキャラクタだな。
…切りがないのでこの辺で
細田守『バケモノの子』日本、2015 @新宿バルト9 9番スクリーン
王道を行っている。ただしそれは「映画」の王道ではなくて、「少年漫画」の王道かもしれない。
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荒木飛呂彦『ジョジョリオン10』集英社、2015.8
広瀬康穂のスタンド能力、「ペイズリー・パーク」がここにきてグッとまた重要度を増してきていている。
途中#40の冒頭に挿入される主観的なスタンドの説明が良くて、選択肢を示してサポートしてくれる存在であるとともに、自分で選び取るという、運命に対する態度とでもいうべきものを示している。これはずっと荒木飛呂彦=ジョジョが大きく主題にしていることだろう。『スティール・ボール・ラン』の大統領の能力の系譜、『ストーンオーシャン』のプッチ神父の系譜であると思える。と、同時にSBRの大統領でグレッグ・イーガンの『宇宙消失』を意識したのだけど、彼女にもあの「病院から消えた女性」を思い出させるものがある。
康穂のこの後のドラマは楽しみだ。心なしかこの巻は『ストーンオーシャン』に絵のタッチが戻っているように思う、というのは錯覚だろうか。
子供が土壇場で勇気ある振る舞いをする、というのも伝統だなあ。荒木飛呂彦の登場人物は正しくあろうという信念を根で持っていて、善玉であろうと悪玉であろうと(「善玉」、「悪玉」という古典的な概念を捨てずに更新しようとしているところが凄いと思う)、敬意を表せるような人物が大半なのが良い。
岩人間が複数いる。柱の男との相似。SBR以降、とくにこのジョジョリオンは過去シリーズに対するオマージュがはっきりと入っており、自己模倣に陥るギリギリのところだなあ、と、ハラハラして毎回読んでいるのだけど、今回はどう出るだろう。
今更ながら、あまり杜王町おもしろロケーション案内の部分を期待しないほうが良いだろう。それなら4部があるのだし。
完結していないものを中途で感想書くのも難はあるけど、ジョジョは完結を待たずにリアルタイムで追っていきたい数少ない作品だ。
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沖島勲『WHO IS TAHT MAN!? あの男は誰だ!?』日本、2013年 @ラピュタ阿佐ヶ谷
やはり怖い。でも、少しこれまでとは怖さの種類が違う印象もある。果たしてどうなのだろう。
『YYK論争 永遠の"誤解"』と『一万年、後….。』とは、地続きの作品であった。というか、姉妹編・続編と言えるだろう。さらにその次の、『怒る西行 これで、いーのかしら。(井の頭)』はその発展的解題であった。「あの世」と「この世」の形而上学的な二項対立とは別のところに位置する、曖昧模糊とした、温かみのある、しかしそれゆえに自他の区別が曖昧な幼少時代の恐怖を感じさせる、そういう宇宙と宇宙観に沖島作品の語り≒カメラは座している。
そんな流れで、次なる作品であるこの『WHO IS THAT MAN?!〜』。これまでのドラマ作品が低予算を逆手に取ったようなミニマリズムともいうべきワンセットの映画だったのに比べて、今回は外である。それもどこにでもあるような(複数の)公園がメインの舞台である。
空間は匿名的でありながらも、外には開けていて、様々な人の出入りがある。しかし決して女性は出入りしない。画家だった男が狭い車の中から追い出されたように、ここに来る男は皆追い出された者たちだ。だかた、自由に音楽を奏でる浮浪者たちや、これから収監される犯罪者などは公園には居続けない。
やがて、場所は何度も変えようが、匿名的な「公園」という空間に閉じ込められているように見えてくる。しかも一箇所に長時間いるわけにはいかないので移動まで強いられている。彼らの存在に関係なしに在り続けるような佇まいの緑の公園。『怒る西行〜』の公園の感じが恐ろしいような形で映画になって現出している。そこであたかも劇中劇かのように繰り広げられる語り。作家論でいえば、紛れもない沖島作品だろう。
そんな公園から彼らはパッと姿を消す。悠久の時のほんのとるに足らない一瞬のことであったかのように。
では、そんな彼らを取材していたジャーナリストの男は特権的であったのか、といえば見ての通りそんなことはない、彼も元テレビディレクターの男などと一緒だった。
でも彼は別の公園に行くことができた。
その道中で出会う元大学教授に救われるのは彼ではなく見ている私だった。この教授が九州で教えてたという情報からも、それ以上に外波山文明が演じているということからも、沖島勲自身なのではないか、と想像に易いが、これまで見てきた通り、そこにこだわるとつまらないだろう。
ジャーナリストの男はこの元教授と出会い、話す。この猫の2つの挿話がなければ、この映画は本当に殺伐として恐ろしいばかりの地獄だったろう。そこまでの語りとは質が違う猫への視点。どこかへ行ってしまった猫への最後の呼びかけが、なぜか自身がどこかへ行ってしまうような別れの呼びかけに聞こえる。彼岸の視点。地震や津波も俯瞰してしまう彼岸。そこからの声がやっと最後に聞こえてくる。ホッとすると同時に寂しい感じ。
訃報に接した後なので、そういう感慨があるのは間違いない。が、もともとそういう場所に沖島勲はいたのだろうから、半歩くらい、少しだけ彼岸の入っただけなんだろう。
沖島勲『怒る西行 これで、いーのかしら。(井の頭)』日本、2010年 @ラピュタ阿佐ヶ谷
1週間前、同じ特集で『一万年、後….。』を見たとき、子供部屋に飾ってあった、会ったことのない祖父の遺影が怖かったことをふと思い出した。
そして、この『怒る西行』を見て、私は、その、会ったことも声を聞いたこともない祖父と、会えたような気がした。実際この作品は「聞き手」のような役割で、孫くらい年の離れた女性(石山友美)が一緒にいるが、それだけが理由ではなさそうだ。(実際沖島はキャメラマンにも直接話しかけたりしているし)
アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』ロシア、2013年 @下高井戸シネマ
こんな映画を見たのは初めてかもしれない。
もちろん、糞尿や、血や、ゴミや、内蔵や、汚泥や、死体のことではない。それだけなら幾らでも見たことはある。
この作品で示されているものは、第一に、こちら(カメラ)に投げかけられる視線である。いや、これもまた、見たことはあるだろう。雪の丘陵地帯から一転、落下してくる糞から始まるこの映画は、終止こちらに投げかけられてくる視線で満たされている。しばらく続いたところで、ああ、これは、登場人物のひとりの主観映像なんだな、フェイクドキュメンタリー風なのか、この異星にいる人類の臨場感を出そうとしているんだな、と思った。おそらくミッドポイント、プロットポイント、あるいは後半のクライマックスで、パッとどんでんに返り、あるいは、カメラを構えている人間でも示されるんじゃないか、とぼんやり考えていた(今考えるといかにも凡庸でつまらない手だ)。ともかく、この我々が見ている映像を捉えている(「見ている」と言い換え可能であろうが、厳密には違う気がした)者もこの映画のなかの人間のひとりなのだな、と考えた。主人公の「神」、ドン・ルマータとともにいるような感覚。惑星案内の導入としては上々である。
しかし、この見ることだけに特化され、限定された状態のまま、糞尿、生ゴミのような食べ物、死体、を延々と眺めていくうち、そして、こちらに絶えず送られてくる人々の視線に当てられているうちに、ああ、これは幽霊の視点なのかもしれない、と思い至った。あるいは、もうひとりのルマータが見ている。精霊的なもの。あるいは、SF的な技術で表現されうるのかもしれない。
いや、どちらも違うだろう、と分かったのは、ラストの雪原のショット、あるいは、エンドクレジット、もしくは劇場から駅への帰り道だったかもしれない。
絶えず何かがシャッターしている。上からぶら下がっている、腐肉、布切れ、死体、といった様々なものが視界を遮ってくる。その隙間からこちらを見る、目。
いわゆる「第四の壁」を破ってくる映画は今までにもたくさんあった。それこそマルクス兄弟から始まる喜劇的表現の常套句だし、ミステリで観客を巻き込むように問いかけたりする者もあるだろう。かつてのゴダールのように通行人がカメラをちらっと見たり、「これは映画だ」と、異化効果を促すものもある…。これら二十世紀的前衛の技法とゲルマンのこれは一線を画している。壁がないというか、壁が移動しているというか…。
なおも繰り返し執拗に示される、「醜悪」の数々(しかし、この作品で示される「醜悪」は目を背けたくなるようなほどでもなく、ある種の美的感覚で統べられているし、モノクロの処理も「上品」で「美的」であると思う)、もはやここに至って、私たちはこの与えられた視点で見ること、しか、出来ないという事実がもどかしくなってくるだろう。
オールアフレコと思われる台詞、クリアかつ近く、即物的な生々しさをもって響く音響がさらに、この空間を強固に定着させる。この音響の近さは、劇場のスピーカーから飛び出し、自分の体の中から沸き上がり響いているといっても、ほとんど間違いではないだろう。
ああ、これは劇場に閉じ込められている私たち自身だ。私たちは、いま、見られているのだ。
映画とは、基本、人の「見たい」という欲望に基づいて、作られるだろうし、その欲望を喚起することで、自らを再生産していくシステムでもあるだろう。作り手の、見せたい、という欲望もまた同様に。そういう視線と欲望の非対称なシステム、それが映画であるだろう。
映画は見るものだ。安全で心地の良い椅子に座り、肉体から一時離れて、スクリーンに没入する。だが、このフィルムは、こちらを見てくる。実際に。観客はもはや神ではない、あるいは、神様はつらい、のだ。多分私はいつも以上に体を顔を目を動かしてこの映画を見ていただろう。