不滅

L'IMMORTALITE

ゾンの呼び声 映画『ゾンからのメッセージ』音響覚書

2018年8月11日からポレポレ東中野にて公開が始まった映画『ゾンからのメッセージ』。川口が音響を担当した作品。


映画『ゾンからのメッセージ』予告編

 公式サイト

call-of-zon.wixsite.com

公開前のスクリーンチェックを経て、初日に全編を映画館で見ることができた。

劇場に掛かって、その鳴りを自分で確認するまで、作品を振り返るのは難しい。ようやくこのタイミングで作品は完成し、観客に手渡される。

ゾンからのメッセージ』の音響について、覚書を書いてみた。

すでに公開された感想に触れているし、記憶が曖昧な部分もある。今の考えであって当時の考えではない部分も多いと思う。あくまでも2018年現在の覚書ということで。

あくまでも私の覚書であって、『ゾンからのメッセージ』の正しい見方を示すようなガイドではない。

大いにネタバレありなのでご注意を。

 

ゾンとはなんだろうか。撮影前から、2014年の撮影中、そして数年に及ぶ仕上げ、2014年末、2015年末、2017年夏と数度に渡るダビングを経て、いよいよ公開された今もなお、それを問い続けている。

初めて脚本を読んだとき、設定として、ストルガツキイ/タルコフスキーの『ストーカー』から、「ゾン」という呼び名を引用していることは分かったが、具体的にどんな音が鳴っているのかはなかなか想像できなかった。閉じ込められている、というイメージ。グレッグ・イーガンSF小説『宇宙消失』。それでもどこからともなく物資は供給さてているというある種のユートピア押井守SFアニメーション『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。など先行する作品をイメージしつつ、この夢問町という町は、音はどんな響き方をするのだろう、と想像を巡らせるにとどまっていた。

20143月末の撮影に先立ってのロケハンにおいて、決定的な出来事があった。同年2月、奇しくも同じく鈴木卓爾監督『ジョギング渡り鳥』の仕上げのために音ロケに、撮影場所である深谷に訪れたのだ。卓爾さん(現場でも普段も「監督」とは呼ばないので普段の呼び方で記す)も同行した音ロケの最中、その直前に深谷をはじめとする埼玉・群馬を中心に襲った未曾有の豪雪被害の様子も見せていただいた。その中で、この『ゾンからのメッセージ』において物語の中心となる場所、「BAR 湯」になる物件を見つけてしまったのだ。他のスタッフたちは都内での撮影を目指しロケハンを進めている最中であったが、ここだ、というものをみつけられないでいた。その最中、煉瓦工場とその離れにある打ち捨てられた建物は、霊感を放っていた。まだ見ぬ、これから紡いでいくであろう物語が幻視できるような場所だった。私もここは面白いと思ったし、何よりも卓爾さんは、瞬間心を決めたように思えた。静かに興奮する様子を見て、ああ、ここで撮影することに決まるな、と思った。

映画の序盤ではじめて「BAR 湯」が出てくるシーン。一歩と麗実が自転車でやってきてゾンから届いたVHSを見せる場面、遠くから電動ノコギリの音が聞こえる。これは上記の豪雪被害で壊されたビニルハウスを解体している音だ。このシーンの撮影中、実際にずっと聞こえていた音だ。映画の後半では「一歩カメラ」がその様子を捉えた場面も実際に登場する。普通こういった音は、本番中はお願いして止めてもらうとか、仕上げでできるだけ取り除くとかするものである。当然復興の営みを撮影のために止めさせることなど出来ない。では、仕上げで取り除くのか、否、むしろ仕上げで足していくことにした。「ゾン」とは関係ない深谷という撮影場所の現在の物語、それを取り入れていくこと。このシーンがこの映画の音に対する考え方の基準になったように思う。

この考え方を自然に取れたのは、ひとえにメインロケハンのみならず、その前段階から制作に参加できたからだと思う。撮影する場所の音、その背景を知っておくこと、これが仕上げの豊かさにつながる。

 

果たして、とある煉瓦工場、その離れの建物をメインロケ地として『ゾンからのメッセージ』は撮影された。中島建設・中嶋社長らの多大なる手助けを受けながら、俳優自ら、「自分の居場所」を一から作り上げておこなわれた撮影現場を通して、この映画はこの人々の「生活」の音を生き生きと鳴らすことが肝だ、ということを確信した。

 

現場では録りきれなかった、台所での様々な仕事の音、着物の衣摺れ、ものを食べる音、などを『ジョギング渡り鳥』のときと同じく、キャスト・スタッフの全面協力のもと、録音した。彼/彼女らは、シネカリなどの作成や合成作業だけでなく、音響効果にもクレジットされていることを、改めて記しておきたい。

フォーリーと呼ばれるアフレコで録り、追加される人物の動きに付随する効果音は、芝居を際立たせたり、よりその空間を表現したり、観客に注目を促したりする効果がある、と同時に、下手をすると記号的なものになり、作り手の作為が露見してしまう危険もあるが、この作品では画面外で生活・仕事をしている人たちの雰囲気をうまく伝えることに成功したように思う。ただ物音を記号的に鳴らすのではなく、そこには「芝居」が必要であるということは、『ジョギング渡り鳥』のときにも記したとおりだ。

 

仕上げを始めるとき、杉井ギサブローのアニメ映画『銀河鉄道の夜』の田代敦巳による音、とりわけ序盤でジョバンニが働いている活版印刷工場の優しさと強さと広さを感じさせる音を意識していた。(もちろん、このような目論見は毎回目の前の具体的な映像と音とによって否定されるのだが、目論むことは大切だと思う)

 

BAR 湯」での生活といえば、個人的にも印象深いシーンが三人が川の字になって寝床につくシーンだ。このシーンは三人の親密さ、「BAR 湯」の建物に包まれている感じを出したくて、Hiを大胆に切って少しこもった音色にした。そして、晶たちが話題を海にしていったとき、風が吹く。ここの風は卓爾さんからなかなかOKが出なかった。深谷で録った風や、そのほかの土地で録ってきた風だけではうまくいかなかった。彼女たちの芝居に寄り添いきれていなかったのだろうと思う。そこで卓爾さんの提案もあり、木立がざわざわと揺れる音に加えて、トタン屋根がペコペコと鳴る音、障子に貼ったビニルが風に揺れる音を、俳優たちと風の芝居をしながら収録した。ビニルが揺れる音を風の芝居を録って、それにほかの音を合わせていく、という作業だった。

 

終盤での、道子と、晶が障子を直すシーン。カチンコを叩く前から始まるシーンである。これは現場でもえもいわれぬグルーヴが立ち上がっていた。その空気をなんとか映画に残そうとしてカチンコまで入っている。カチンコとか関係なくふたりはそこに居る。当初ここにはスタッフの談笑の声を入れていた。メイキングが挿入される他の場面でもあったが、そういうバラバラにゆるく居る人々を活写することを目指していた。しかし、これはスタッフとしての自意識なのかもしれないが、我々の談笑が入っているのは少々居心地が悪い気もした。だからという訳ではないが、最後の2017年の編集版が、ここには一歩カメラのあのコリアンの女性との会話を、その空間を隣に同居させることを思いつかせた。深谷の音とゾンの音を同居させること、その具体的な形である。

 

「ゾン」からはどんな音がするのだろう。そもそも音が聞こえてくるのか。

ファーストカットの土手を晶が歩いてゆくロングショットをみて、水底というイメージが浮かんだ。それはゾンの音というよりは、ゾンに囲まれた夢問町の空間のイメージだ。深谷の音と、この水底の音がこの映画の通奏低音だ。ラストカットに還ってゆくイメージ。水槽にマイクを沈めてあぶくをたてたり、水槽のそばで16mmの映写機を回したりした。映写機の音は直接的すぎて、イメージを限定してしまう恐れもあったが、貫太郎の部屋から見えるゾンの壁とその空間が映画館にみえれば、という思いで思い切ってつけた。

ゾンとは何か、と問うことと、この映画を作り上げる、ということが相似形になってゆく。誰もゾンとはこういうものだという明示的な答えを示さなかったし、私も明示してはいけないのだと、理解していった。それは映画の役割ではない。

そんな中、私はゾンの壁が一番大写しになっている場面の音で悩んでいた。ただ音を近く大きくしてもあまり面白くない。自分の叫び声などをその場で録って乗せてみたりもしたが、ゾンにはノイジーで激しい音もゆったりした音も、どんな音でもしっくりと合ってしまう。どんな音が聞こえれば怖いだろうか、とボンヤリと手を動かしながら、なんとなく、直前の映画の音がやまびこのようにディレイして聞こえてくるのはどうだろうと、やってみると、ゾワゾワと鳥肌が立った。おそるおそる卓爾さんたちに聞かせてみると、戸惑いなのか戦慄なのかわからないが、否定されなかった。

このことで、事後的にゾンとは非人間的なシステムで、あるのは人間によるさまざまな解釈のみであると、私は解釈した。

 

砂嵐から聞こえる音は、いわゆる「ホワイトノイズ」と呼ばれるものである。これは各周波数において、同程度のノイズが満遍なく出ている様子を光にたとえて呼んでいるものである。スピーカーから出した音をマイクで録音したりもしたが、あまり効果を得られず、結局ソフトウェアで作ったホワイトノイズを若干加工調整しながら乗せてある。

余談だが、昔のアナログテレビを放送電波のない帯域にチューニングしたときに受信している電波の中には「宇宙マイクロ波背景放射」という、ビッグバンのときに発生した光エネルギーの残り香の残響が含まれている。つまり現れる砂嵐とホワイトノイズの中には、ビッグバンの情報が含まれている。

閑話休題。ただのホワイトノイズは、普通に映画の音に付随しているノイズと混同しやすいので、バランスに気を使った。そして、晶が覗く穴の中のうねるような砂嵐、これにはノイズの中でも低い周波数ほど増幅されている「ピンクノイズ」も使っている。

 

「ホワイトノイズ」は他にも厄介なことがあって、映像で明示されていないと、木立が風に揺らぐ音なのか、海のざわめきなのか、テレビの砂嵐なのか、判別が難しい。

海の音は、画面に登場するまで、決して先行させて聞かせないと、卓爾さんと相談して設計していった。一歩と麗実が彷徨い、海に近付いてきたシーンでも、海の気配を音ではまだ感じさせていない。これも卓爾さんの意見だったと思う。

海を話題に出したりすると、砂嵐が、風の音が、海の音のように聞こえてしまう。それが悩みでもあったが、最終的には決して海の音は使わないが、そのように聞こえてしまっても良い、というところまでは詰められたように思う。砂嵐の音と、海の音が似ているということは映画のテーマであり、それに風に揺れる木立の音も加わったことは、むしろ必然で、だからこそ、あの寝床のシーンが絶妙な塩梅で決まったのだと思う。繰り返すが、あそこの風の音は、素晴らしい芝居だ。

しかし晶のショットには海の音をかぶせたかった。聞かせたかった。その思いが最後のシーンで例外的に海の音を先行させることになった。

 

 

音楽はいつも頭を悩ませる。良い音楽ほど強く映画を牽引してしまうし、そもそも映画の空間を表現しようとしている音の中にあって音楽は異物で、どこでもない場所で鳴っているように感じられるからだ。澁谷浩次さんの音楽は強くて豊かで、当初、対抗意識を持ってしまったように思う。劇中二回鳴るファンファーレの響きがどうしても腑に落ちずに、手が止まってしまったとき、卓爾さんが「ゾンの向こうから聞こえてくる」とアドバイスをくれた。その一言で、やっと私は音楽の響きも映画と共存させることが出来た。作業の最後の最後で、一歩が番人のような人の制止を振り切って貫太郎の部屋に向かう場所で、『花の街』を数回響かせることになった。私はこの音楽が始まる場所と終わる場所に合理的な説明ができず、気持ち悪いと思いながらも、対案も示せず、そのままの形で仕上がった。今となっては少しでもずらすことは難しいだろう。多分、合理的な説明など出来ないことに意味があるのだと思うが、私にとって、謎であり続け、ゾンの象徴になっている。

 

この映画では、私は田村という役で出演もしている。最初は写真だけでの登場だったのだが、最後に実際に登場するシーンも追加することになった。2014年末に1回目のバージョンを作った後だった。台本なしで撮ったこの場面は今思うに、田村と私、川口が同居している。私の中ではゾンの音のイメージが概ね出来上がっていたので、「ゾンの音を聞くんだよ」というセリフが自然に出てくる「先に行ってしまった男」であった、のかもしれない。ここで録られている音は、実際に画面内にある私が首から下げているレコーダとそれに付随しているステレオマイク、貫太郎が持っている(ゾンスコープに飛び出す!)ガンマイクで拾っている音である。芝居しながら録音するという『ジョギング渡り鳥』風にいうところの「録音芝居」である。貫太郎が持っているマイクは、そのカゴの中で逆に装着していて、実はゾンではなく我々の方に向いている。

 

シネカリの空にスタン・ブラッケージの言葉が響いていた。「調和した音楽がもたらす効果はその音楽のリズムが持つビジョンやトーン、感覚のイメージに当然のように結びついてしまう」ので「音は一切必要ない」。

私がかつて一浪して大学に、そして映研に入った19歳のとき、そこから出しているジンに、生まれて初めて映画に関する文章を書いた。ちょうどブラッケージの『DOG STAR MAN』が公開されたときで、その映画と先のブラッケージの言葉に衝撃を受けた私は、これから、映画と音との関係について考えていきたい、と書いた。そのときの原稿や冊子はどこにいっただろうか、実家にあるかもしれない。卓爾さんとの映画づくりは、自分自身がこれまでどのように映画と向き合って来たか、ということにもろに直面し、その思いを注ぎこめる、大きな大きな船に乗っているようなものだ。私は自由に、自分の持てるものすべてを、人格を込めた。自分の作品だと胸を張って言える。と同時に、出来上がったものは紛れもなく鈴木卓爾の映画であって、慄然とするとともに、に誇らしく思う。

『ジョギング渡り鳥』、『ゾンからのメッセージ』、『All Night』、ワンピース、と何本も一緒に作品を作ることが出来たことは、この先一生の宝であり、十字架でもあるかもしれない。

ありがとうございました。