不滅

L'IMMORTALITE

エドワード・ヤン『恐怖分子』台湾/香港、1986年 @下高井戸シネマ

人は誰も分かり合うことはできない。半径3メートルの範囲で、哀しくもがくしかないのか。
では、その半径3メートルを軽々と超越して、モンタージュしてみせる映画とはなんなのだろう。
ここに示される登場人物は決して善男善女ではない。人を陥れたり、騙したり、傷付けたり、傷付けられたりしている。
にも関わらず、彼ら彼女らが愛しいのは、寂しさと孤独に対面しているからだ。
絶妙なサイズのワンショットでそれは捉えられる。優しさや奇跡のないこの世界で、唯一優しさと奇跡を持ち合わせているのがこの映画だ。だから、唯一観客である我々だけが、彼ら彼女らと、その寂しさを共有することができる。
だから、同期の友人を陥れながらも、自らも出世から外れ、妻に去られたあの男も、この映画が我々に見られることによって、初めて救われる。
この皆殺しを見ているのは誰か。男か、妻か、友人の刑事か。他の誰でもない、我々だけが、それを見ているのである。
 
孤独なマテリアルがモンタージュによって初めて救われる、生かされる。このことを映画と呼んでも差し支えないのではないか。
 
ブレッソン北野武のフィルムを思わせる冒頭の賭場での銃撃戦。一応この事件が孤独な魂たちをモンタージュさせる契機になっている。
この静けさはなんだろうか。外の世界が存在しないかのような。フレームの外には世界は存在しないかのような気配。何かをまき散らし感染させるというよりは、ある種のものごとを吸い込むような磁場。
樋をつたい落ちてくる水の音だけははっきりと聞こえてくる。銃声は鳴り響く。これは「静けさの表現」といったテクニックを超えている世界だ。つまり、彼らの置かれている世界は、この音が聞こえる範囲に限定されている、閉じ込められている。だから孤独なのだとも言えるし、孤独だから閉じ込められているとも言える。
電話の呼び鈴は不安に鳴り続ける。それに応答することは、「繋がる」ことであるはずだ。なのに、それはむしろ孤独を伝播させる。孤独ということで繋がれる。
朝の光はぼんやりと世界の外から照らしてくる。
光こそが世界で、世界とはスクリーンのこちら側だ。スクリーンのこちら側に投げ出されて、世界は初めて完成する。
こんな彼ら彼女らを自業自得で愚かな人間たちだと思うことがどうしてできるだろうか。
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