沖島勲『YYK論争 永遠の"誤解"』日本、1998年 @ラピュタ阿佐ヶ谷
この作品で示されているのは、歴史/物語/語りの齟齬でも、低予算映画の苦悩でもなくて、宇宙(世界)そのものであろう。それは西洋的なユニバースではなく、東洋的な曼荼羅の宇宙観といえば良いか。だから厳密に言えば宇宙ではなく、宇宙観を示していると言える。
この映画を見た後、ネットで沖島勲監督の訃報に触れた。
この宇宙とは映画の撮影もしているし、俳優が芝居をしている宇宙でもあり、過去も、空想も等しく「今ここ」に立ち現れてくる映画的宇宙でもある。
ふと考えると、そもそも映画とはそういう表現であろう。
決してこれはフィルムメイキングものの映画ではない。ただ、世界を撮ったとき、そこでは当然映画の撮影もしているというだけのことである。
メインプロットである、YYK=頼朝・義経・清盛、そこに常盤御前も加えての対話。この対話自体が既に時空を超えたものである。しかもそれはこの作品内で撮影されている映画である。複雑な構造を持つ映画に思えるが、実際は極めてシンプルだ。ただただ「今ここ」に立ち現れいる出来事なのだ。すべてを「今ここ」に召喚する営み、それが映画だとも言い換えることができるかもしれない。
しかしその考えも、義経役と頼朝役の2人が空き時間にする戯れの芝居(そのオフには現場からの喘ぎ声が響く!)、さらに彼らが夜にする、「今度やる舞台」の稽古、によって脱臼させられる。
それに掛けられる、監督の「あんたたちなにしてんの?」という言葉が映画全体にフィードバックしてくるようだ。
だから、この映画、この映画内の撮影に絶えず闖入しようとする亀裂が、必然なのだ。
トンネルを掘って撮影場所に闖入してきた自衛隊員が、タイムトンネルを抜けた旧日本軍に一瞬思えるのも、そんな彼ら自身が穴を覗き込む清盛と常盤御前にタイムトンネルを抜けてしまったと思い卒倒するのも、すべてを「今ここ」にしてしまう映画というものの宿命であろう。
そう考えると、この「監督」はこの作品を作った沖島勲監督自身なのだろうか、低予算映画をとらざるを得ない自らを投射しているのだろうか、という問いからも軽やかに逃れることができる。実際は知らない。しかしこのフィルムは彼をも等価の宇宙の中へ投げ込んでいるかに見える。
ここで、冒頭の雪の中を行くシーンに戻ってみよう。監督のものだろうと理屈では解釈できるが、そう示されてはいない、この唯一特権的な「今ここ」ではないかに見えるシーンは、やがて撮影を終え、孤独に明け方の道路を行く監督の足取りに輪を描くように帰するだろう。そこには空から、呼びかける常盤御前の声もこだまする。
YKKの対話の最後で、清盛はこの話には「あの世」がない、と指摘する。これはもちろん役者に監督たちが言わせているセリフである。
しかし、ここに至ってこの映画は「今ここ」ではないもの、「あの世」の導入を試みる。常盤御前(役の女性)への厚意を拒まれた監督は初めてたった一人になり、「今ここ」ではない雪道を歩く。ように見える。
しかし映画はそれでも、夜が明け走り出した電車とその音をただただ、非人間的に示し続ける。(追記:そういえば、『WHO IS THAT MAN〜』もラストは駅だった。沖島勲にとって、駅・電車というのは特別な意味があるのだろうか。見直して確かめてみたい。)
「あの世」とて「この世」すなわち映画的「今ここ」に召喚してしまうと、「あの世」ではなくなってしまうのか…。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後のテーゼ。野矢茂樹は『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」の中で、「語りえぬ」ものこそが重要で、それを示すための逆説的な営みこそが『論考』であると述べているが、この「語りえぬもの-あの世」、それを示そうとする試みがこの映画であるのかもしれない。
(追記)
そのどちらも、沖島勲が先駆だと思う。というか、先駆とかは関係ない地平にずっと前からいたのだろう。
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この偶然に驚いて動揺もしたが、「この世」と「あの世」を超越的な視点で示す宇宙観を持った作家にとって死は、取り立てて、特別な出来事ではない。死は出来事でも「今ここ」にあるものでもなく、境界線にすぎず、それはただただ、超越的な視点で示されるのみである。
というのは強がりだろうか…
残念です。