不滅

L'IMMORTALITE

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』ロシア、2013年 @下高井戸シネマ

こんな映画を見たのは初めてかもしれない。
もちろん、糞尿や、血や、ゴミや、内蔵や、汚泥や、死体のことではない。それだけなら幾らでも見たことはある。
この作品で示されているものは、第一に、こちら(カメラ)に投げかけられる視線である。いや、これもまた、見たことはあるだろう。雪の丘陵地帯から一転、落下してくる糞から始まるこの映画は、終止こちらに投げかけられてくる視線で満たされている。しばらく続いたところで、ああ、これは、登場人物のひとりの主観映像なんだな、フェイクドキュメンタリー風なのか、この異星にいる人類の臨場感を出そうとしているんだな、と思った。おそらくミッドポイント、プロットポイント、あるいは後半のクライマックスで、パッとどんでんに返り、あるいは、カメラを構えている人間でも示されるんじゃないか、とぼんやり考えていた(今考えるといかにも凡庸でつまらない手だ)。ともかく、この我々が見ている映像を捉えている(「見ている」と言い換え可能であろうが、厳密には違う気がした)者もこの映画のなかの人間のひとりなのだな、と考えた。主人公の「神」、ドン・ルマータとともにいるような感覚。惑星案内の導入としては上々である。
しかし、この見ることだけに特化され、限定された状態のまま、糞尿、生ゴミのような食べ物、死体、を延々と眺めていくうち、そして、こちらに絶えず送られてくる人々の視線に当てられているうちに、ああ、これは幽霊の視点なのかもしれない、と思い至った。あるいは、もうひとりのルマータが見ている。精霊的なもの。あるいは、SF的な技術で表現されうるのかもしれない。
いや、どちらも違うだろう、と分かったのは、ラストの雪原のショット、あるいは、エンドクレジット、もしくは劇場から駅への帰り道だったかもしれない。
絶えず何かがシャッターしている。上からぶら下がっている、腐肉、布切れ、死体、といった様々なものが視界を遮ってくる。その隙間からこちらを見る、目。
いわゆる「第四の壁」を破ってくる映画は今までにもたくさんあった。それこそマルクス兄弟から始まる喜劇的表現の常套句だし、ミステリで観客を巻き込むように問いかけたりする者もあるだろう。かつてのゴダールのように通行人がカメラをちらっと見たり、「これは映画だ」と、異化効果を促すものもある…。これら二十世紀的前衛の技法とゲルマンのこれは一線を画している。壁がないというか、壁が移動しているというか…。
なおも繰り返し執拗に示される、「醜悪」の数々(しかし、この作品で示される「醜悪」は目を背けたくなるようなほどでもなく、ある種の美的感覚で統べられているし、モノクロの処理も「上品」で「美的」であると思う)、もはやここに至って、私たちはこの与えられた視点で見ること、しか、出来ないという事実がもどかしくなってくるだろう。
オールアフレコと思われる台詞、クリアかつ近く、即物的な生々しさをもって響く音響がさらに、この空間を強固に定着させる。この音響の近さは、劇場のスピーカーから飛び出し、自分の体の中から沸き上がり響いているといっても、ほとんど間違いではないだろう。
ああ、これは劇場に閉じ込められている私たち自身だ。私たちは、いま、見られているのだ。
映画とは、基本、人の「見たい」という欲望に基づいて、作られるだろうし、その欲望を喚起することで、自らを再生産していくシステムでもあるだろう。作り手の、見せたい、という欲望もまた同様に。そういう視線と欲望の非対称なシステム、それが映画であるだろう。
映画は見るものだ。安全で心地の良い椅子に座り、肉体から一時離れて、スクリーンに没入する。だが、このフィルムは、こちらを見てくる。実際に。観客はもはや神ではない、あるいは、神様はつらい、のだ。多分私はいつも以上に体を顔を目を動かしてこの映画を見ていただろう。