不滅

L'IMMORTALITE

沖島勲『怒る西行 これで、いーのかしら。(井の頭)』日本、2010年 @ラピュタ阿佐ヶ谷

1週間前、同じ特集で『一万年、後….。』を見たとき、子供部屋に飾ってあった、会ったことのない祖父の遺影が怖かったことをふと思い出した。

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そして、この『怒る西行』を見て、私は、その、会ったことも声を聞いたこともない祖父と、会えたような気がした。実際この作品は「聞き手」のような役割で、孫くらい年の離れた女性(石山友美)が一緒にいるが、それだけが理由ではなさそうだ。(実際沖島はキャメラマンにも直接話しかけたりしているし)

沖島勲監督の作品に触れると、どうしても個人的なこと、幼い頃のまだ「自我」が輪郭を持っていなかった頃、自分というものがはっきりしていなかったと同時に、世界の輪郭もおぼろだった頃、のことを、思い出し、語らずにはいられない。
これは、たまたま波長が合っただけなのだろうか、と考えていたのだが、今回初めてこの作品に触れて、必然であったこと、沖島勲はそういう風に映画を作っていることが分かった。
私だけにしかわからない、秘めた語りだと思いきや、普遍的な語りだったのだ。
確かに、またもや個人的な話だが、私は神戸の山肌を切り開いた団地で生まれ育ったので、村上春樹の話も(高校の遥か上の先輩にあたる)、隣の棟が見えなくなるほどの霧が山からたちこめてくる感じも(しょっちゅうで、怖いと思ったことはない)、黄昏どきからやがて逢魔がどきになる頃、友達の家から帰るのに迷子になり、パニックになったことも、実際経験していて、原体験だといえる。
これは「私」にしか分からない感覚だろう。が、この感覚を呼び起こす普遍的な語りなのだ。誰もが子供の頃に抱いていた、ぼんやりとした、怖いな、不思議だな、という感覚を呼び起こす。
玉川上水の昼間の語り歩きが、宇宙であり、永遠であるような。実際に春の一日でありながら、何世紀にもまたがった歩みであり、ここではない別の世界に繋がっている。そんな歩みをただ、今ここで見つめると同時に、宇宙の果て、異次元の彼方から眺めているような、超越的であり、無限であり、永遠であり 、同時に無限小のただ現在の一点、特異点であるような、時空がスクリーンとスピーカーから現出してしまう。
子供の頃、部屋の片隅にも、薄暮の公園にもあった、ぼんやりとした闇。映画とはこの闇にほのかに浮かび上がる光と陰なのだ、と、私に語りかけてくる。