不滅

L'IMMORTALITE

安川有果『Dressing Up』日本、2012 @シアターイメージフォーラム 2

2年前、CO2(シネアスト・オーガニゼーション大阪)東京上映展2013でこの作品を見た。少し長くなるが、そのときの感想をまず、貼付けてみたいと思う。初見の感想、というやつだ。果たして、2年ぶりに見て、私に変化はあるのだろうか…

2013年5月のツイート。


  ※上映後に沖島勲監督と安川有果監督との対談があり、そこで沖島監督は、母親は実は生きていた、ってのは妄想で、やはり死んでいた、と安川監督に聞き、えー、と残念がって言ったのだった。私も全く同感だった。


 

 


さらに別の日にも


 

 

 

 

さて、今回、内容を知った上で、2年ぶりにスクリーンで再会してみた。上記のことにとらわれていて、他の要素について飛んでしまっていたが、このようにこだわってしまったのは、ひとえに、私がこの映画に惹かれたからに違いない。

単純にこの映画は短すぎたのだ。中編映画の常であるが。

今回、中盤までの演出の方がむしろ面白く見れた。娘の、シーンごとに見せるいろいろな表情が、自然さと芝居と、正常と狂気と、静寂と暴力と、の間を往復している感じが、瑞々しく捉えられている。いじめっ子を殴ることで、クラスのバランスが崩壊していくさまも、シンプルに描かれている。いじめられっ子も、そのことにアイデンティティを依っていたという細やかな描写と、娘のそれを指摘も小気味いいし、切り付けられた友達が最後教室で、少し変われた、というのも。娘がこの学校に転校して来たことによって起きたさざ波が、このクラスに変化をもたらす様が、実に立体的で、見事だ。いじめなどを正面から扱った学園ものでは、逆に難しくなってしまうのだろうか。

なかでもやはり、特筆すべきは父親(=鈴木卓爾)だ。

2年前にもツイートした通りなのだが、どこに身を置いても自分を異物と認識しているかのような立ち居振る舞い、娘との距離の取り方、典型的ではない、ただひとりこの娘の父親として、この世界に存在している感じ。父親もまた、別個の怪物であるに違いない。(「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」ニーチェ

今回新たに気になったのは、言葉だ。この父親、おそらく出身は関西ではないのだろう。標準語に時々混じるたどたどしい関西弁。娘のネイティブな大阪弁との差異、この音韻の温度の差、これがこの父娘の関係を密かにうまく表象していると思った。何かを封印したような言葉遣い。関西弁話者には、非ネイティブ話者の抑揚、音韻のわずかな違いにも、ひどく違和感を感じる。それは、単純に無理している感じに聞こえる。しかし、この父親、標準語の喋りも、なにかネイティブじゃない感じがする。標準語もまた努めて喋っているように。クライマックス前の娘との対話が言うように、「本当はどう思ってるか」ということは、一生封印する決意のパロルだろうか。

この断絶が、親子といえども、絶対的な他者である、という事実を突きつけてくるようだ。

だからこそ、(しつこいけど)今回はフィジカルな事実ではない、と、前もって分かった上で見た、山小屋のシーンは、やはり、残念だった。

しかし、翌朝タートルネックを着ていない父親の首の傷に、今回は、そうか、昔、この男は…、と感慨深く思うことが出来た。

だからこそ、娘のエピローグはどれも、上品に纏まりすぎていて、やはり残念。絶対的な他者との対峙の果てに、たどり着く場所が、今でも見たい。

これは単純に、この祷キララ=育美に、作者は優しすぎたのではないか。