不滅

L'IMMORTALITE

沖島勲『一万年、後….。』日本、2007年 @ラピュタ阿佐ヶ谷

子供の頃、夜に電気を消して眠る、目を瞑るのが、すなわち「無」や「死」が怖かったことを思い出させる映画。
映画とはこの恐怖を克服するために発明されたのではないか。つまり、人間が闇を恐れる限り、死を恐れる限り、映画は死なないだろう。

先週、同監督の『YYK論争 永遠の”誤解”』について書いた。

miro41.hatenablog.com

 はっきりのとこの、『一万年、後….。』はその続編、姉妹編、変奏であると言えるだろう。

宇宙に果てにカメラが置かれた映画。沖島勲がある宇宙観を映画を通して示していると述べたが、宇宙を捉える、宇宙観を示すには、カメラは宇宙の外に出なくてはならない。宇宙の外、それは空間も時間もない場所…、いや、「場所」ですらない。だからこそ、この映画では、「誰も見ていない風景」を示すことが出来る。個人の思い出と、長き人類の歴史が等価値になる。多分この監督は常にあの世とこの世、片足ずつで立っているいるような人だ。その境界という、非-場所に、「居る」から、このような映画を示し続ける。それはこの劇中では、スタジオ、という枠組みを使って示されている。冒頭とラストに示される全景。これはメタではなく、全て、という意味に見える。

時間と空間とを超越すること、それは、身近な例だと、やはり「死」だろう。

死を想像するとき、浮かんでくる闇。

個人的な思い出だが、子供時代、子供部屋に遺影が飾ってあった。知らない若い男の遺影。祖父らしい。父が三歳のときに亡くなったそうだ。父よりも若い祖父、の遺影、とても怖かった。見ないようにしてもどうしても見てしまう。アルカイックな笑みでずっとこちらを見ている。こちらが見ていないときも常にこちらを見ているという存在感。寝ている体勢の視界に入ってくる。夜中に目を覚ますと、視界に居る。動いて見えたことも何度もあった。凄く凄く怖かった。中学生くらいのときに、母に外してくれ、と、思い切って頼んだ。すんなり受け入れてくれた。母も怖かったらしい。そんなものをずっと子供部屋に飾っていたとは。でも、子供時代は外して、と言えなかった。神聖なもので、そんなことを言っちゃいけない。怖いと思うのは間違っている。と思っていたからだ。母も私が怖いから外してくれと言うのを待っていたのかもしれない。

長くなった。閑話休題

だから死んだお母さんがおじさんより若い姿で映し出されることも、何の不思議もない。「一万年後」の世界を「あの世」と捉えることは容易だ(YYKで清盛が指摘した「あの世がない」のあの世を描こうとしたのが企画のきっかけかもしれない…)。しかし、「死後の世界」みたいなものより、もっと概念的な無時間、無空間であると思われる。あの世とは何かを真剣に考えた結果の。

後半の妹がみかんを買いに出てからのおじさんと少年の会話シーン。ここが、本当に恐ろしい。暗闇の中ぼんやりと浮かぶおじさんが喋る。間。この間で画面がフリーズフレームになる。一瞬事故かと思わせるが、それよりも、突然の顔面アップのフリーズフレームが恐ろしい。死んだ人間の顔にしか見えない。やがておじさんと少年のダイアローグもずらされていく。(いま、ここの会話内容がどうしても思い出せなくて、ハッとしている…)

DVCAM画質の粗い粒子感の闇がボンヤリとまとわりついて来て、どこかの宇宙でたまたま見つけた映像のような、底知れぬ不安が常に現出してくる。いつも通りギャグによる脱臼も織り込まれて行くのだが、それがどんどん未知の時空間の方への脱臼なのだ。

どうしても謎は残る。唯一この部屋の外をとったシーン、おじさんの少年時代の回想で、みかんを買いに裏の家に歩いて行く。このショットだけは部屋の壁に電波のチャンネルがあって映し出される映像ではなく、スクリーンに現出する生のショットだ。これだけが。これは、『YYK論争〜』の冒頭の常磐御前一行が雪道をゆくシーンに対応しているように思われる。だが、この映画では前の作品のように、答えが用意されていない。未だ謎だ。そう簡単に分からせてはくれない。

先週『YYK論争〜』を見たときは、死を超越した気分になっていたのだが、今、死や闇が、とてつもなく、漠然と、恐ろしいもに感じる。子供のように。

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