不滅

L'IMMORTALITE

ブラッド・バード『トゥモローランド』アメリカ、2015年 @TOHOシネマズ新宿 スクリーン6

前作の『ミッション:インポッシブル・ゴーストプロトコル』がこの作家の初見で傑作だった。ラストの戦いの舞台に立体駐車場を選んだのにはなるほどと思った記憶がある。
シナリオレベルではかなり欠点が多い。複雑な設定を複雑なプロットで語ってしまっている。段取りの多さに辟易してしまい、二幕目の彼女のドラマにイライラさせられる。2人が合流してロケットを打ち上げるまでは正直辛かった。「現在」から過去を語るタイプの語り口もあまりうまくいってないように思う。(アテナの視点の語りの方がまだ良かったのではないか)(アテナはまどか☆マギカのQBみたいだなあと思った)
やはりこの作家は上下運動、とりわけ上昇することではなく、落下することでドラマを組み立てる人のようだ。
少年は地を這うばかりだったロケットベルトで飛ぶことが出来て、初めて彼女の前に降り立ち、選ばれたものであることができる。アトラクションのゴンドラは彼の資格を認めると、まず落下する。
圧巻はエッフェル塔のロケット。このロケットは落下するために、宇宙空間まで飛び立つのだ。
この映画は無意識に「トゥモローランド」は地下にあると考えているようだ。
トゥモローランド」はクレヨンしんちゃんの「オトナ帝国」のような、かつて夢見られた未来であり、時制は過去なのだ。過去への退行と落下がユニゾンしている。逆にもう一人の選ばれた者である彼女はリフトで上昇する時に未来を見る。
やがて少年は大人になり再びロケットベルトを操り、永遠の少女を優しく落とすだろう。それは少年時代を過去のものにするという大人の儀式なのだ。

沖島勲『一万年、後….。』日本、2007年 @ラピュタ阿佐ヶ谷

子供の頃、夜に電気を消して眠る、目を瞑るのが、すなわち「無」や「死」が怖かったことを思い出させる映画。
映画とはこの恐怖を克服するために発明されたのではないか。つまり、人間が闇を恐れる限り、死を恐れる限り、映画は死なないだろう。

先週、同監督の『YYK論争 永遠の”誤解”』について書いた。

miro41.hatenablog.com

 はっきりのとこの、『一万年、後….。』はその続編、姉妹編、変奏であると言えるだろう。

宇宙に果てにカメラが置かれた映画。沖島勲がある宇宙観を映画を通して示していると述べたが、宇宙を捉える、宇宙観を示すには、カメラは宇宙の外に出なくてはならない。宇宙の外、それは空間も時間もない場所…、いや、「場所」ですらない。だからこそ、この映画では、「誰も見ていない風景」を示すことが出来る。個人の思い出と、長き人類の歴史が等価値になる。多分この監督は常にあの世とこの世、片足ずつで立っているいるような人だ。その境界という、非-場所に、「居る」から、このような映画を示し続ける。それはこの劇中では、スタジオ、という枠組みを使って示されている。冒頭とラストに示される全景。これはメタではなく、全て、という意味に見える。

時間と空間とを超越すること、それは、身近な例だと、やはり「死」だろう。

死を想像するとき、浮かんでくる闇。

個人的な思い出だが、子供時代、子供部屋に遺影が飾ってあった。知らない若い男の遺影。祖父らしい。父が三歳のときに亡くなったそうだ。父よりも若い祖父、の遺影、とても怖かった。見ないようにしてもどうしても見てしまう。アルカイックな笑みでずっとこちらを見ている。こちらが見ていないときも常にこちらを見ているという存在感。寝ている体勢の視界に入ってくる。夜中に目を覚ますと、視界に居る。動いて見えたことも何度もあった。凄く凄く怖かった。中学生くらいのときに、母に外してくれ、と、思い切って頼んだ。すんなり受け入れてくれた。母も怖かったらしい。そんなものをずっと子供部屋に飾っていたとは。でも、子供時代は外して、と言えなかった。神聖なもので、そんなことを言っちゃいけない。怖いと思うのは間違っている。と思っていたからだ。母も私が怖いから外してくれと言うのを待っていたのかもしれない。

長くなった。閑話休題

だから死んだお母さんがおじさんより若い姿で映し出されることも、何の不思議もない。「一万年後」の世界を「あの世」と捉えることは容易だ(YYKで清盛が指摘した「あの世がない」のあの世を描こうとしたのが企画のきっかけかもしれない…)。しかし、「死後の世界」みたいなものより、もっと概念的な無時間、無空間であると思われる。あの世とは何かを真剣に考えた結果の。

後半の妹がみかんを買いに出てからのおじさんと少年の会話シーン。ここが、本当に恐ろしい。暗闇の中ぼんやりと浮かぶおじさんが喋る。間。この間で画面がフリーズフレームになる。一瞬事故かと思わせるが、それよりも、突然の顔面アップのフリーズフレームが恐ろしい。死んだ人間の顔にしか見えない。やがておじさんと少年のダイアローグもずらされていく。(いま、ここの会話内容がどうしても思い出せなくて、ハッとしている…)

DVCAM画質の粗い粒子感の闇がボンヤリとまとわりついて来て、どこかの宇宙でたまたま見つけた映像のような、底知れぬ不安が常に現出してくる。いつも通りギャグによる脱臼も織り込まれて行くのだが、それがどんどん未知の時空間の方への脱臼なのだ。

どうしても謎は残る。唯一この部屋の外をとったシーン、おじさんの少年時代の回想で、みかんを買いに裏の家に歩いて行く。このショットだけは部屋の壁に電波のチャンネルがあって映し出される映像ではなく、スクリーンに現出する生のショットだ。これだけが。これは、『YYK論争〜』の冒頭の常磐御前一行が雪道をゆくシーンに対応しているように思われる。だが、この映画では前の作品のように、答えが用意されていない。未だ謎だ。そう簡単に分からせてはくれない。

先週『YYK論争〜』を見たときは、死を超越した気分になっていたのだが、今、死や闇が、とてつもなく、漠然と、恐ろしいもに感じる。子供のように。

一万年、後....。 [DVD]

一万年、後....。 [DVD]

 

 

 

 

エドワード・ヤン『恐怖分子』台湾/香港、1986年 @下高井戸シネマ

人は誰も分かり合うことはできない。半径3メートルの範囲で、哀しくもがくしかないのか。
では、その半径3メートルを軽々と超越して、モンタージュしてみせる映画とはなんなのだろう。
ここに示される登場人物は決して善男善女ではない。人を陥れたり、騙したり、傷付けたり、傷付けられたりしている。
にも関わらず、彼ら彼女らが愛しいのは、寂しさと孤独に対面しているからだ。
絶妙なサイズのワンショットでそれは捉えられる。優しさや奇跡のないこの世界で、唯一優しさと奇跡を持ち合わせているのがこの映画だ。だから、唯一観客である我々だけが、彼ら彼女らと、その寂しさを共有することができる。
だから、同期の友人を陥れながらも、自らも出世から外れ、妻に去られたあの男も、この映画が我々に見られることによって、初めて救われる。
この皆殺しを見ているのは誰か。男か、妻か、友人の刑事か。他の誰でもない、我々だけが、それを見ているのである。
 
孤独なマテリアルがモンタージュによって初めて救われる、生かされる。このことを映画と呼んでも差し支えないのではないか。
 
ブレッソン北野武のフィルムを思わせる冒頭の賭場での銃撃戦。一応この事件が孤独な魂たちをモンタージュさせる契機になっている。
この静けさはなんだろうか。外の世界が存在しないかのような。フレームの外には世界は存在しないかのような気配。何かをまき散らし感染させるというよりは、ある種のものごとを吸い込むような磁場。
樋をつたい落ちてくる水の音だけははっきりと聞こえてくる。銃声は鳴り響く。これは「静けさの表現」といったテクニックを超えている世界だ。つまり、彼らの置かれている世界は、この音が聞こえる範囲に限定されている、閉じ込められている。だから孤独なのだとも言えるし、孤独だから閉じ込められているとも言える。
電話の呼び鈴は不安に鳴り続ける。それに応答することは、「繋がる」ことであるはずだ。なのに、それはむしろ孤独を伝播させる。孤独ということで繋がれる。
朝の光はぼんやりと世界の外から照らしてくる。
光こそが世界で、世界とはスクリーンのこちら側だ。スクリーンのこちら側に投げ出されて、世界は初めて完成する。
こんな彼ら彼女らを自業自得で愚かな人間たちだと思うことがどうしてできるだろうか。
f:id:miro_41:20150710113642j:image

 

沖島勲『YYK論争 永遠の"誤解"』日本、1998年 @ラピュタ阿佐ヶ谷

この作品で示されているのは、歴史/物語/語りの齟齬でも、低予算映画の苦悩でもなくて、宇宙(世界)そのものであろう。それは西洋的なユニバースではなく、東洋的な曼荼羅の宇宙観といえば良いか。だから厳密に言えば宇宙ではなく、宇宙観を示していると言える。
この宇宙とは映画の撮影もしているし、俳優が芝居をしている宇宙でもあり、過去も、空想も等しく「今ここ」に立ち現れてくる映画的宇宙でもある。
ふと考えると、そもそも映画とはそういう表現であろう。
決してこれはフィルムメイキングものの映画ではない。ただ、世界を撮ったとき、そこでは当然映画の撮影もしているというだけのことである。
メインプロットである、YYK=頼朝・義経・清盛、そこに常盤御前も加えての対話。この対話自体が既に時空を超えたものである。しかもそれはこの作品内で撮影されている映画である。複雑な構造を持つ映画に思えるが、実際は極めてシンプルだ。ただただ「今ここ」に立ち現れいる出来事なのだ。すべてを「今ここ」に召喚する営み、それが映画だとも言い換えることができるかもしれない。
いや、冒頭の雪の中を行く常盤御前一行のシーンは何か。監督が妄想する予告編の構想、清盛役の役者で撮ろうと思っていた映画の構想、倉庫番をしていた頃の回想、などは「今ここ」ではないのではないか。
しかしその考えも、義経役と頼朝役の2人が空き時間にする戯れの芝居(そのオフには現場からの喘ぎ声が響く!)、さらに彼らが夜にする、「今度やる舞台」の稽古、によって脱臼させられる。
それに掛けられる、監督の「あんたたちなにしてんの?」という言葉が映画全体にフィードバックしてくるようだ。
だから、この映画、この映画内の撮影に絶えず闖入しようとする亀裂が、必然なのだ。
トンネルを掘って撮影場所に闖入してきた自衛隊員が、タイムトンネルを抜けた旧日本軍に一瞬思えるのも、そんな彼ら自身が穴を覗き込む清盛と常盤御前にタイムトンネルを抜けてしまったと思い卒倒するのも、すべてを「今ここ」にしてしまう映画というものの宿命であろう。
そう考えると、この「監督」はこの作品を作った沖島勲監督自身なのだろうか、低予算映画をとらざるを得ない自らを投射しているのだろうか、という問いからも軽やかに逃れることができる。実際は知らない。しかしこのフィルムは彼をも等価の宇宙の中へ投げ込んでいるかに見える。
ここで、冒頭の雪の中を行くシーンに戻ってみよう。監督のものだろうと理屈では解釈できるが、そう示されてはいない、この唯一特権的な「今ここ」ではないかに見えるシーンは、やがて撮影を終え、孤独に明け方の道路を行く監督の足取りに輪を描くように帰するだろう。そこには空から、呼びかける常盤御前の声もこだまする。
YKKの対話の最後で、清盛はこの話には「あの世」がない、と指摘する。これはもちろん役者に監督たちが言わせているセリフである。
しかし、ここに至ってこの映画は「今ここ」ではないもの、「あの世」の導入を試みる。常盤御前(役の女性)への厚意を拒まれた監督は初めてたった一人になり、「今ここ」ではない雪道を歩く。ように見える。
しかし映画はそれでも、夜が明け走り出した電車とその音をただただ、非人間的に示し続ける。(追記:そういえば、『WHO IS THAT MAN〜』もラストは駅だった。沖島勲にとって、駅・電車というのは特別な意味があるのだろうか。見直して確かめてみたい。)
「あの世」とて「この世」すなわち映画的「今ここ」に召喚してしまうと、「あの世」ではなくなってしまうのか…。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後のテーゼ。野矢茂樹は『ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む」の中で、「語りえぬ」ものこそが重要で、それを示すための逆説的な営みこそが『論考』であると述べているが、この「語りえぬもの-あの世」、それを示そうとする試みがこの映画であるのかもしれない。
(追記)
「震災」前から「震災」後の映画を撮っていた作家がいる。沖島勲鎮西尚一いまおかしんじだ。とりわけ鎮西尚一『ring my bell』は今となっては「震災」前に撮られたのが嘘だとさえ思わせる。
過去と未来を現在=映画の名の下に等価値に扱う作家がいる。沖島勲森崎東(ペコロスの母に会いに行く…)、大林宣彦(この空の花…)。
そのどちらも、沖島勲が先駆だと思う。というか、先駆とかは関係ない地平にずっと前からいたのだろう。

YYK論争 永遠の“誤解” [DVD]

YYK論争 永遠の“誤解” [DVD]

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

『論理哲学論考』を読む

『論理哲学論考』を読む

この映画を見た後、ネットで沖島勲監督の訃報に触れた。
この偶然に驚いて動揺もしたが、「この世」と「あの世」を超越的な視点で示す宇宙観を持った作家にとって死は、取り立てて、特別な出来事ではない。死は出来事でも「今ここ」にあるものでもなく、境界線にすぎず、それはただただ、超越的な視点で示されるのみである。
というのは強がりだろうか…
残念です。

godspeed you! black emperor / あるいは、三拍子の宇宙 その2

 その1

miro41.hatenablog.com

 からのつづき。

2003年にgodspeed you! black emperorgy!be)は活動を休止させた。ブッシュとそのイラク戦争を、「音楽の力」で止めようとしたが、無力だったことに失望したからだ、とも伝え聞いている、先にも言及した、活動休止前最後のアルバム、

Yanqui Uxo

Yanqui Uxo

 

 の裏ジャケはこのようなものだ。

f:id:miro_41:20150629184730j:plain

このアルバムに払われた金が、どのように軍需産業に流れていくか。それを示したフローチャート図である。

さらにインナージャケットにも

f:id:miro_41:20150629185423j:plain

このようにメッセージが記されている。gy!beはそれまで、自らの顔写真さえ撮らせず、商業誌のインタビューにも一切答えないばかりか、あくまでも「表現」「作品」のみで世界に切り込んでいた。音とジャケットのアートワークとライヴの演奏とそこでの16mm実験映画フィルムの投射のというファンダメンタルなバンドであったのだが、この悲壮感は何だろう、と、このアルバムリリース時に思ったことを覚えている。

ただ、このメッセージには震えたことも事実ではあった。

cstrecords.com

ここにもまだ当時のメッセージが載っている。日本盤CDの帯にも訳出されたメッセージが載っている。

"u.x.o."とは不発弾であり、地雷であり、クラスター爆弾である。”yanqui”とはポスト・コロニアル帝国主義であり、国際的警察国家であり、多国籍企業の寡頭政治である。ゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーは共謀者であり、罪人であり、抵抗勢力である。このニューアルバムはただの音楽である。

 たとえメッセージや意味があったとしても、それを言葉で説明することを拒んで来た彼らのこの行動を、そこまで危機感を持っているのだという表現とみなすか、限界とみなすか。

はたして、このアルバムのリリースされた2002年の翌年、2003年にgy!beはいったん活動を休止した。

その報を聞いて、当然凄く残念だった。

しかし、彼らは複数のサブユニットを作り、活動してもいた。その中でも、一番耳に届いてくるのは”a silver mt. zion”系の音だ。gy!beはヴィーカルを一切入れないが、このバンドではヴォーカル曲もある。「系」というのは、このバンドはアルバムを出すたびにバンド名をマイナーチェンジしてくるから。

中でも

Horses in the Sky by Constellation 【並行輸入品】

Horses in the Sky by Constellation 【並行輸入品】

 

 このアルバムは凄く気に入っている、1曲目の”GOD BLESS OUR DEAD MARINES”の絞り出すようなヴォーカルに唸った。


God Bless Our Dead Marines (LIVE, GREAT ...


God Bless Our Dead Marines (LIVE, GREAT ...

2つに分かれているが、歌詞の字幕付のライヴ映像。最近初めて見つけて感動した。

他にも、Esmerineなど魅力的な活動がある。

だが、やはりその渦の中心はgodspeed you! black emperorであることは私にとって変わらなかった。

2010年末、gy!beがライヴ活動を再開したらしいという報を知る。そして、2011年2月末に最来日公演を果たしたのだが、悔しくも当時そのライヴに私は行くことが出来なかった。

翌2012年、いよいよ音源も発売された。 

Allelujah! Don't Bend! Ascend!

Allelujah! Don't Bend! Ascend!

 

 もはや、iTunesで落とすことも多くなったのだが、gy!beの作品はジャケットワークも含めてのものであるという認識がとりわけ強いので、CDを買う。いつも紙ジャケで、ビニールを剥がし、中身はどんなんだろう?と見る瞬間から始まっているのだ。そしてぼんやりとアートワークを眺めながらデッキに入れる。おお、これは三拍子ではない。もちろん、以前からそうでない曲もあったのだが、gy!beのキラーチューンは軒並みワルツのビートだったので、代名詞かと思い込んでいたが、十年ぶりに届いたアルバムをデッキに突っ込むとそこには知っているgy!beのサウンドだが、十年分の時間を経過した今のサウンドにもなっていた。「帰って来た」などという常套ではなく、またこうして今、音がある。嬉しかった。

その興奮の余韻の中、翌2013年には新譜を引っさげて(この常套もどうなのかとは思うが、そういうことなのだ)の再びの来日ライヴ。これは借金して行った。

www.livefans.jp

東京2DAYSの1日目。先のニューアルバムの1曲目”Mladic”も当然プレイ。記憶のバイアスのせいと、初見という興奮もあって、2001年のときのような恍惚とした感動は得られなかったが、もう大人なので、PA前の会場中央やや後方でそこの空間全体の音を頂いた。LIQUIDROOMのサウンドは最高だった。このダイナミズムに、映画はどう太刀打ちすれば良いのだろう、悩む。

翌2日目に知り合いが行って、そこでは、”BBF3”をやったと聞いて、羨ましい、とおもったが、自分が見たのも十分良かったのは確かであった。

Karl Lemieuxによる三台の映写機マルチによる16mmフィルムプロジェクションも前回より、意識して見ることが出来た。概ね曲と展開によって決まったフィルムを掛けていることも確認できたし、後方で聞いていると、静寂の間に間に、映写機の走行音がかすかに聞こえてくるのもまた良い。

”Mladic”については、YouTubeに素晴らしいライヴ映像が上がっている。


Godspeed You! Black Emperor - Mladic - YouTube

そして、今年2015年EPも含めて7枚目の音源をさらっとリリースした。

 

Asunder, Sweet & Other Distres

Asunder, Sweet & Other Distres

 

いつもの儀式、CDのビニルを破り、アートワークを眺めながら、Macに入れる。最後の行程だけ、十年前とは変わった。もう、当然良い、という感想である。どこか肩の力が 演奏者にも、聞き手にも抜けて来たようだ。特に後者だろうか。単に歳を取ったという言い方も出来る。

活動再開後のgy!beのサウンドは、休止直前のヒリヒリした感じは少なく、かといって、日和った軟弱なサウンドでもなく、彼らの今が素直に聞こえてくる。音楽で、本気で世界を変えようとして、出来なかった、これを挫折と呼ぶのだろうか。ドン・キホーテだったのか。何にせよ、それを経た彼らが、再び、他ではないこのgodspeed you! black emperorの名の下に音を日本の私にも届けてくれることは僥倖である。そして、命の糧になっている。

slow riotは失敗していていない。今も続いている。例えば、私の中で。

godspeed you! black emperor / あるいは、三拍子の宇宙 その1

初めて聞いたのがいつだったのか、実は思い出せない。確か2000年前後だったと思う。2001年の初来日の心斎橋のクアトロにいって凄まじく感動したのを良く覚えいてるから。
友人から薦められ借りて、最初に聴いたのがこれだ。

Slow Riot for New Zero Kanada

Slow Riot for New Zero Kanada

 

 文句無しの最高傑作EP。ちなみに私がプロフィール欄とかによく使う「slow riot from new zero tokio!」という文句はこれの捩り。
『MOYA』と『BBF3』の2曲。これを何となくデッキで掛けっぱなしにしているうちに、心と体に染み込んでしまったようだ。初めて聴いた瞬間にピンときたというような記憶はない。当時は「ポストロック」系などほとんど聴かず、グラインドコアばっかり聴いてたし(AxCxとか…)。しかし気がつけば酒を飲んで頭をグラグラさせながら聴きまくっていた。今でも一番好きな曲はと問われれば『MOYA』と答える確率が高いだろう。三拍子のゆったりとしたリズムのミニマルなリフレインに孕まれているスリリングさと力強さと知性。バイオリンとチェロの逼迫していながら滑らか響きに、すんだギター、最後にはグロッケンまで。それが螺旋を描くように増幅していき、聴く者の血を静かに沸騰させる。


Godspeed You! Black Emperor Live at The ...

2001年のライヴの感覚が蘇ってくる。2013年の2度目の来日ではこの曲は演奏しなかった。近年になってプロショット・プロレコーディングと思われる質の高いライブ映像も出てくるようになった。(かねてからブートレグは認めているので(レコーダーを没収しようとした会場側のセキュリティとメンバーが喧嘩になったこともあるらしい)、YouTubeなどに映像は上がってはいた)映像を見れば分かる通り、gy!beは基本8名のメンバーの他に、Karl Lemieuxというメンバーがおり、16mmフィルムのループを三台の映写機で照明は焚かないステージ上に映写している。彼の映像作品が確か去年あたりにイメージフォーラムの特集上映で掛かったらしいのだけど、後で知って後悔している。

さて、借りたCDを返し、リリースされている盤を買うまで時間はかからなかった。

Lift Your Skinny Fists Like Antennas to Heaven

Lift Your Skinny Fists Like Antennas to Heaven

 

 二枚組全4曲の大作。タイトルも素晴らしく、私の生きる指針のようでもある。これはもう買って帰って来てデッキにCDを放り込んだ瞬間から、ビシビシ来た。最初は1曲目の「storm」の冒頭"gathering storm”が一番ピンときた(「MOYA」と相似形の雰囲気もあって、単純に音がだんだん厚くなって壁になっていく様、その中にも爽やかさを感じる春の嵐のような曲)(自主映画に無断で使用した)が、その時々によって違う。例えば今は3曲目「sleep」の中の"Monheim"の悲鳴か叫びか嗚咽かエクスタシーかそのどれか/あるいはすべての感情を含んだギターの音色が好きだ。ほかにも、4曲目「 Antennas to Heaven」の"She Dreamt She Was a Bulldozer, She Dreamt She Was Alone in an Empty Field"も音もタイトルも切なさと希望がある(gy!beは"HOPE"という単語を強く使う。ライヴでもこの単語のシネカリグラフィが必ず映写される)。

Lift Your Skinny Fists Like Antennas to Heaven - Wikipedia, the free encyclopedia

このように、gy!be組曲のような形式で曲を構成しているので、アルバム全体で一曲とも捉えられるし、一個のトラックもいくつかのパートで構成されていもいる。

そして、その頃初の来日ツアーが組まれることを知った。

www.livefans.jp

インターネットは本当に便利だ。日付やセットリストはもう忘れたな、と思っていたら、こうして確認することが出来た。アンコール前のラストに「MOYA」をやって、本当に頭が真っ白になった。アンコール中、今はもうメンバーではないブルースが肩からスネアを提げてフロアを練り歩いていた。知らない曲も何曲かあって、それも良かった(gy!beは新曲を作ってリリースという訳では必ずしもなくて、セッションを重ねながらライヴレパートリーにどんどん入れていき、あるタイミングで音源に入ったり、まだ入らなかったりする)。

当時はポートレイトも一切撮らせない、商業誌のインタビューも受けない、音源以外のいかなる商品も売らない(これは今でも。Tシャツが欲しければ自分で作れと言っていた)というアティチュードだったので、初めて生の肉体を持ったメンバーが普通の人間で、楽器を奏でている、ただそれだけの事実にいたく感動した(バイオリンのソフィさん美人だなあ、とかも思った)。

ライブのほとぼりも緩やかに持続しているなか、早々と新しいアルバムがリリースされた。

Yanqui Uxo

Yanqui Uxo

 

 先のライブで聴いた曲も入っていて、それと分かる。リリース前からの情報で、今回はセルフプロデュースではなく、あのスティーブ・アルビニをレコーディングエンジニアとして迎えると知っていたので、期待は高まるばかり。

果たして、たしかに、良いアルバムだった。だが、メランコリックな中にもあった”HOPE”の成分が見えなくなっている気もした。

アルビニの音作りがソリッドすぎるから?(事実gy!be側はアルビニの仕事が気に入らず、カナダに戻ってから自ら再ミックスしたとも聞いたきがする)ジャケットなどのアートワークが直接すぎるから?

それまでは暗喩、隠喩にとどまっていたのだが、このアルバムではタイトルの通り、アメリカ批判を全面に押し出し、裏ジャケにはチャート図が描かれていて、このCDに払った金が軍需産業に流れていく流れが描かれていた。

音楽はその意味内容があったとしても、その言葉ではない抽象性故に特別な価値を持っていると私は考えるが、もともとパンクでアナキストの彼らは本気で音楽の力で世界を変えようとしていた、のだろうか。

このアルバムに関する私の当時と今の「印象」は現時点での振り返りでしかありようがないので、逆に、ジャケットのミサイルの写真から、ああ、このビートの連打はミサイルが落ちる音だなあ、と、本人たちが実際にそう意図したとしても、よけいな感じ方をしている、かも知れない。

などと、当時、考えていたか、もはや定かではないが、そんな中、翌2003年にgodspeed you! black emperorは活動休止を発表した。

 

その2

miro41.hatenablog.com

 へつづく…

ミラン・クンデラ『不滅』菅野昭正訳

60歳か、65歳くらいのご婦人のある仕草。異様なほど感動的だったそれは彼女の年齢や人となり、何者であるかということすら押しのけて、抽象化された、純粋で、人格を越えたものだった。「私」=「作者(≒クンデラ?)」は、そのとき目撃したそれに、アニェスという名前を想像した。
ここから始まるミラン・クンデラ『不滅』は、その「ご婦人」ではなく、「仕草」をモデルにしたアニェスを主人公とした小説である。

そうやって第一部「顔」が始まる。クンデラの小説はどれも導入が抜群にスリリングなのだが、この導入はその中でも飛び抜けている。
ある人物の「仕草」を抽象化して、「アニェス」という人物のキャラクターが沸き上がってくる。仕草=action論、イメージ論、そんな「作者」の思索と、この小説のアニェスの物語が、滑らかに、いつの間にか同時に、始まる。いや、始まらなくてはならない。考えるのと同時に創造しているのだから。
読んでいるときの時間の感覚の、不愉快ではない浮遊、(普通の)物語を読んでいるときに、自然と沸き上がってくる自意識の分裂(物語の世界に入っている自分、そんな自分を俯瞰している自分、本のページのシミや汚れに気づく自分、本筋から逸れて言い回しや語彙に関心を向ける自分…)、それが予めこの本には書き込まれているようでもある。そして、この思考の行ったり来たりが全然不愉快ではなく、自然で、自分がそう考えているかのように錯覚しさえもする。むしろこれは私には、小説よりも映画を見ているときによく感じている感覚かもしれない。

そんなアニェスの話である第一部から、小説は突如ゲーテの話である第二部「不滅」へとなだれ込み、以降アニェスの話と交互に語られていく。全七部のこれは重層的な音楽のようだ。
とにもかくにも第一章の興奮。

今日、久々に本棚から引っ張りだして、第一部を読んでみた。付箋が貼ってあったり傍線が引かれてたりしたが、これ何年前だろう。
そんな訳で、第一部のことしか今はちゃんと書けないのであった。

 

 ”L'IMMORTALITE” by Milan Kundera 1990

不滅 (集英社文庫)

不滅 (集英社文庫)

 

もちろん、このブログのタイトルの由来である。
さらに私は、かつて別のタイトルで書いていたシナリオに『不滅』と最後に付けた。
そして、そのあとに書いた別のシナリオも最後はタイトルを『不滅』とするのがしっくりきた。 この小説の映画化では当然ない。
「私」がご婦人の仕草に「アニェス」と名付けたのとは少し違うが、私は「不滅」という言葉と音と字面に、ふとミラン・クンデラの『不滅』から離れて、魅了されている。